きらきらひかれ

テレビもねえ ラジオもねえ おまえにそれほど興味もねえ

なつい


好きだった人と出かけた時に着ていたTシャツをこの夏は部屋着にした。2本目のアイスに手を伸ばす。どうやったって届かない年収1000万の壁。ワークライフバランスのことを考えるほどモラトリアムの足場が揺らぐ。なかったみたいになった先週の夜のこと。可愛いから買ったかき氷。去年より多い雨。ハンディファンの生ぬるい風。私たちがとりこぼした夏

3年前はデート服だったこの夏の部屋着、2本目のアイス、ワークライフバランスの崩壊、年収1000万円の壁、東京のコンクリート、モラトリアムの終末期、去年より多い雨、うるさい風鈴、興味ない展覧会、ケチるバス代、終電、ファブリーズでごまかす今日の汗、キャンメイクの限定、色の変わった腋、ぬるいそうめん、多めに入れたアリエール、つけっぱなしのクーラー、捗らない勉強会、私たちが取りこぼした夏


君がぼろぼろにし損ねた僕の柔らかいところを1つ1つ切って売って、生き延ばしています。君がとどめをさせるよう最後の一欠片を残したまま、その日が来るのを待っています。どうしようもなく好きだった頃を思い出してどうしようもなく泣いてしまう夜を殺すための生活。君が来るのは夏な気がするから、私は夏を憎みきれないで汗に涙を混ぜて泣き真似だよってくさくてごめんね、だいすきだったよ

メメントモリ

無理だとわかっていても欲しいし、だめだとわかっていてもやるし、何年前から余命宣告されたって死ぬのは悲しい。悲しいという気持ちがただそこにあるということを受け止めて、終わりを忘れないで、私はこれからも生きなければならない。

子どもの頃に手に入らなかったものに人は一生執着するらしい。スナック菓子を食べさせてもらえなかった子どもが一人暮らしを始めてお菓子ばかり食べるとか、ゲーム機を買ってもらえなかった子どもが働いてゲーム機を買った途端寝ないでゲームをやり続けるとか。私は違う。私は何もかも持っていた。何もかもそれなりに与えられて、幸せに相違ない環境で、ぬくぬくとあたたかい家庭ですこやかに生かされてきた。何不自由ない子どもだった私に足りないのはきっと刺激と自由意志だった。

幸せになる方法を知っている。地元の国公立大学に行って、そこそこ大きい地元のさらに大きい隣の市で就職して、大企業のデスクワークで定時に帰って、帰りにイオンで買い物して、休日はたまに実家に顔見せて、社内の真面目そうな人と付き合って結婚して、産休育休フルで取って子ども産んで、郊外にマイホーム買って、時短で働きながら子どもの習い事の送り迎えして、子どもが大きくなったらまた働いて、定年になって貯まったお金と退職金で年金暮らし。そして、死ぬ。きっと私は死ぬしかできない。死ぬことすら上手くできないかもしれない。

常識を作る最小単位である家族の、親の生き方をなぞるように生きていく。喜びも苦しみも再生産。だってそれしか知らないから。常識とは18歳で家を出るまでに身を浸した環境のことだ。私にはそれがつまらなかった。普通の幸せが1番よ、と言われて信じられるほど素直じゃなかっただけかもしれない。ぬるま湯に浸けていても数時間後には火が通ってしまう鶏ハムみたいな、ゆっくりと温度を上げればそれに気づかずに茹でられてしまうヒキガエルみたいな、私もそうやって茹ってしまうだけなのではないかという漠然とした人間の不安。

夢を見てしまった。いつかのミスiDの「夢見る頃をすぎても」というキャッチコピーを思い出した。講談社のES締切はいつのまにか終わっていた。ミスiDにも書類で落ちた。夢見る頃はとっくに過ぎて、それでも私は東京に夢を見てしまった。夢が見たかった。
ひどくくたびれた現実を生きるくらいなら夢を見て死んでいく方がマシだと思う。ろくに見えない目で見る東京はぼんやりしてどこよりも美しかった。
梅田の歩道橋の手すりに沿って灯る暖かいオレンジの光の連なりを見て、ディズニーランドみたいだなと感動したことがある。小学生の頃の将来の夢がディズニーランドのキャストだったことを思い出した。穏やかで、暖かで、優しい光が見慣れたビル街の中で輝いて見えた。小学生時代の日々もこんな風に暖かかったのかもしれない。大阪が1番美しく見えたのはあの夜だった。
東京の光は白くて冷たい。突き刺すような眩しさに私は刺されて、暖かなあの色の日々を全部忘れた。馬鹿だったなあって思ってる。全部私が馬鹿だった。馬鹿で浅はかで愚かな幸せ者だった。痛くて苦しくて幸せだった。東京にいる人はいつだって「そんないいものじゃないよ」って笑うけど、私が暖かな光の日々を今そうやって言うみたいに、その中にいたらわからないんだよ。あんなに優しい光はもう私の人生に降り注がないのかもしれない。

死んでしまったらもう取り返しがつかない。死者は二度と生き返らない。私たちは死ぬ。たとえどんなに美しくても幸せでもそこには必ず終わりが来る。死ぬ日まで一生懸命生きていくことが生を受けたことへの報いなのかもしれない。一生懸命ってなんなのかな、私は一生分の命を懸ける覚悟も自信もあったのにな。なれんかった?私じゃだめだった?暗い森の中で叫んでも誰も見てくれないね。暖かい光はもう消えた。私の夢だったものは東京の光になれますか?流れ星よりもあのビルの窓から漏れる一筋の白い光に私はずっとなりたかった。

愛され上手は死に上手


恋ができない。誰のことも好きじゃない。パチモンの感情を伏し目がちに観察して、いいところを探して、こころのノートに書いて、一瞬の錯覚をあたかも永遠であるように言いふらすことで後に引けなくなり、洗脳していくことを恋と呼んでいる。そんな恋ならたくさんしてきた。その度に適当に愛と恋にキラキラを纏わせた言葉を並べて好きの証明を書き続けている。昔から行ってもいない行事の作文を書くのは得意だった。あらすじと結末しか読まずに書いた読書感想文は賞をとった。私にとって偶然発生した1の好意を100に解釈して1000の言葉を綴ることなんて容易かった。

自分に酔えない人間は恋ができない。俯瞰して見た瞬間に全てが終わる。もっと言えば、落ち着いて見た瞬間に恋の幕はガラガラと下がる。だからいつだって恋は盲目。へべれけな千鳥足で駆け寄れば、君は私を抱きしめてくれるのだろうか。

性欲が強くなくて助かった。人間が1人でできないことなんてキスとハグと生殖くらいしかなくて、あとはお金と自信で大体どうにかなる。なんならキスもハグもその先もお金を払えばどうにかなってしまう。ただ、愛し合うことだけはこの先私がどれだけ偉くなっても、どれだけ大金持ちになっても、どれだけ美しくなっても、きっと手に入らない。ただ愛されたかった。それには私が愛さないといけなくて、愛せないならきっと求めてはいけない。私は君を永遠に愛せない。だから私は愛されない。

今日このまま死んでしまって、何人が私の死に泣いてくれるか見てみたい。その時初めてあなたのことを心から愛せると思う。二度と開かない目と二度と動かない体で安らかに君に恋をする日を私はずっと待っている。

東現京

 

 

フリーターの友達とバイト帰りに遊んでカラオケにたどり着いて朝帰りした日、ベタつく体と無敵の気持ちを洗い流しながら私はなんでここにいるんだろうと絶望した。ちゃんとやってきた。ちゃんと頑張った。ちゃんと生きてきた。なのにどうしてここにいるんだろう。

朝帰りは本当は好きじゃなかった。若さとそれ故の体力を代償にしてまで歌いたい歌なんかなかったけど、その浪費を許容できるほどに若さが有り余っているという実感がもたらす無敵感が気持ちよくて楽しくて、何回も懲りずに馬鹿みたいに馬鹿になって遊んだ。あまりに刹那的で衝動的な遊びの後、帰ってシャワーを浴びると急に寂しくなって、人生の賢者タイムってここかなとか考えながら鬱々とした切実な文章を書き連ねる。その自称行為までセットで癖になっていた。カーテンを閉めて灯りを消して、たった1%の朝陽が鈍く照らす部屋のベッドで今日と昨日と、そしてこれまでの人生の間違い探しをする。誰かのよくわからない正解と並べて、間違いの方にしてしまった自分の人生を思っているうちに眠くなって、そうしてまた、今度は比べるまでもなく明らかに間違いの1日が増えていく。

 


地方の大都市の郊外に生まれた。つまるところそこは地方だった。当たり前みたいに地元の公立小学校に進んで、当たり前みたいに地元の公立中学校に進んだ。少し荒んだこの街では貧乏で頭の悪いやつが強かった。小金持ちで頭のよかった私は浮いていた。でも私からすればこいつらが沈んでいるだけだった。この街を早く抜け出したくて、一生懸命勉強を頑張った。ずっとこいつらとは違うと思っていたし、こんなところに混ざりたくないと思っていた。顔を合わせたくなくて親に頼み込んでわざわざ隣町の塾まで通った。それでも当たり前みたいに地元の1番賢い公立高校を受けた。高校受験には落ちた。「合格や不合格よりも努力したという事実が大切だから。また大学受験でリベンジできるように挫けず頑張れよ」という塾長の言葉にどういう感想を言えばいいのか、あの時も今もわからない。

渋々進んだ高校はいわゆる自称進学校で、キリスト教系の自由な校風の中で蔓延る国公立信仰と厳しい先生たちが気持ち悪かった。抑圧された自由もどきの中で挫けないために大森靖子を聴いていた。イエスと国公立の代わりに大森靖子を信仰して、学校に隠れてバイトしたお金で1人夜行バスで東京に行った。三軒茶屋大森靖子のライブを見て、ホテルのある新宿に戻るための田園都市線の中で本当の自由はここにあると思った。汚い渋谷の光が人生を今までで1番眩しく照らしてくれた。この時から東京で生きることが人生の目標であり希望になった。

東京の大学に行きたかった。でも私の学力では東京の国公立に入れなかった。東大や一橋には手が出ないし、唯一どうにかなりそうな首都大東京は八王子だったので絶対に嫌だった。大都市の郊外は結局地方だということを、私は嫌というほど知っている。早慶やMARCHの学費と一人暮らしのためのお金はうちでは払えないと母に言われた。うちは小金持ちであって大金持ちではないし、ただでさえ高い私立高校のお金を私のせいで払わせているのだから何も文句が言えなかった。自習室を使いたいと頼み込んで1科目だけ通わせてもらっていた天王寺河合塾には、「関関同立大英語」の授業はあっても「MARCH英語」の授業はなかった。自称進学校は相変わらず国公立以外を大学として認めていないかのような口ぶりでなりふり構わず琉球大学さえも勧めていたので学校の先生には相談しなかった。家から通えるし、西日本の私立で1番頭がいいし、そして何よりも早稲田大学との交換留学制度があるからという理由で京都の同志社大学を受けた。ちゃんと受かった。今度こそ自由があればいいなと思った。東京の大学へは行けなかったけど、挫けなかったしリベンジは成功したのかもしれない。学校の先生からはおめでとうと言われないまま静かに高校を卒業した。

結局、母の配慮で京都で一人暮らしをすることになった。東京じゃないけど、とりあえず地元から抜け出せたのが嬉しかった。地元の同級生は全員馬鹿だから同じ大学に進んだという話は聞かなかった。コロナで1回生の間は片手に収まるほどしか大学に行ったことがなかったけど、そんなことはどうだってよかった。

京都の街は好きではなかったので、緊急事態宣言の隙間を縫って阪急で梅田に繰り出して高校の同級生と遊んだ。2回生になって対面授業が少し増えると友達ができて、その子たちの不満をインスタの裏垢に書きながら授業のある日は毎日のようにみんなで大学前のサイゼに行った。バイトに明け暮れてどんどん金遣いが荒くなった。部屋は散らかって買ってから一度も着てない服とZOZOTOWNの段ボールが床を埋める。不自由なコロナ禍でできる限りの自由をかき集めた。早稲田か青学に行きたかったこと、東京で働きたいこと、東京で生きていきたいということ、早稲田大学との交換留学に行きたかったこと。本当に欲しかったその全部が京都の熱にうなされている。大学の友達とは馬が合わなくてバイト先のフリーターとばかり遊ぶようになった。人生で初めてオケオールをした。8時から寝始めるので4限か5限じゃないと授業に行かないことが増えた。月に10万稼いでも全部使い切っていた。5時になって店を追い出されて河原町通を歩く時、朝陽が眩しくなくてよかったと思った。最大瞬間風速の自由をこの子は運んできてくれる。単位も就活も東京も、この子は絶対に口に出さない。だからずっといっしょに遊んだ。2人で両手を繋いで作った内輪だけのストーリーが宝物だった。

気づけば3回生になった。早稲田の交換留学はコロナと生活に巻き込まれてどこかに隠れて、行方不明のリップみたいに最初からなかったことにした。勝ち負けを忘れて、その判定すらわからなくなって、ただ夢も努力も全部が京都の盆地の暑さに茹ってふやけた。ずっとお風呂に入ってしわしわになった指先みたいな、温かくて気持ちよくてどうしようもない無敵の日々だった。この瞬間が続くなら東京になんか行かなくてもいいかもなと思った。だから突然東京に行った。周りがマイナビの使いづらさに文句を言ったり他己分析をしてくれとストーリーでみんなに呼びかけている中、私は東京で働くこと以外何も決められなかった。東京という目標を手放したら大学すらも辞めてしまいそうだった。

久しぶりに着いた朝6時の新宿は相変わらず朝陽が眩しくて、河原町通とは全然違った。責められているみたいで、それでいてそれが嬉しかった。その日はインスタで繋がった子と遊んだ。通学の満員電車や実家暮らしの不自由さを嘆いてはいたけど、一浪して青学に行ったその子の選択肢がとても自由に思えて羨ましかった。きっと予備校には「MARCH英語」も「早慶大国語」もあったんだと思う。その子と見た東京は、これまでよりもずっとぐっと生活そのもので、この非日常を日常にするためならなんだってしようと思ってその子の手をぎゅっと握った。その気持ちをいつでも思い出せるように、やっぱり東京に住みたかった。いつかじゃなくて今住みたかった。

翌朝、戻ってきた京都駅から家まで河原町通を市バスが上る時もやっぱり朝陽は眩しくなかった。光の中で生きたい。やっぱり地方を抜け出してもたどり着いた先が地方じゃダメだったんだ。大阪がダメなら東京しか残されていない。私の最後の希望が東京なのは必然だった。

でも、だからといって、たかが1日東京に行ったくらいじゃ大して何も変わらない。特効薬は効き目が強いほど切れるのが早いし副作用もきつい。1限は遅刻ギリギリに走って大学に向かうし、オケオールはやめられない。ジャンカラの会員ランクは来月シルバーになるらしい。公務員の予備校のオンデマンドは溜まってるし部屋は散らかっている。ZOZOのツケ払いもやめられない。ただ、あの子と遊んでももう瞬間最大風速の風は吹かない。

 


人生の19歳から22歳を京都に置いてきてしまう。やっと地元を抜け出して自分の力でたどり着いた街だ。自由を謳歌したし楽しかったこともたくさんある。決して嫌な思い出ばかりじゃないけど、若さは、21歳はもう二度と来ない。人生の瞬間最大風速はあの子じゃなくて21歳の若さが吹かせていたのかもしれない。私は東京でまた風を吹かせることができるのだろうか。

東京で公務員になろうと思っている。なりたいと思っている。初めて東京に行ったあの時泊まったホテルの25階のレストランでモーニングを食べながら見た都庁。あそこで働いて、遅刻しそうになりながらも正面玄関に向かって走る私の姿をみたあの日の私が喜んでくれたらいいなと思った。それに一般企業だと東京の本社勤務になれるとは限らないし、東京で1人で生きていくためにも安定は必要だから。給料は低いし東京都職員じゃなくて国立大職員や国税局かもしれないし、仮に東京都に採用されても八王子とかの結局また大都市の郊外みたいな、地元より地方な街に配属されて東京らしい東京に暮らせないかもしれない。それでなくともたぶん、六本木のタワマンにも広尾の低層マンションにも私は一生住めない。桃源郷なんてきっとこの世界のどこにもない。恋焦がれた東京で公務員になって30歳で年収400万の私は、週末は家でニトリのソファに座ってネトフリで00年代の邦画を流しながらハーゲンダッツを食べて、たまにわざわざ東京タワーを見るために出向いて歩いていく。TwitterでバスったRANDAのヒールを履いて、あの日の道をタクシーで。CICADAじゃなくてびっくりドンキーでパインバーグディッシュを食べて、ボーナスで奮発して新宿の伊勢丹カルティエのトリニティなんて買っちゃってそれを大事に大事に毎日つけて、一億総中流の流れのど真ん中で東京に沈みたい。地元を抜け出してたどり着いた地方じゃないこの街ならきっと私がちょっとくらい浮かれたって浮かない。

 

残光

 

 

結局街を作るのは人なのでそこで私と出会う人が私の欲しい街を作るんですよね。生きたい理由と死ねない理由は本当は紙一重で、私は死ぬ瞬間までは言わずとも病院で管に繋がれて思い出す記憶が私を悲しませないように一生懸命生きていたいな。特にメリットもないのに旅をしてジムバッヂを集めて四天王と戦いポケモンマスターになりたがるサトシにふいにシンパシーを覚えながら、中途半端なピカチュウのモノマネをする女への苛立ちを思い出してしまい、ああだめだな、こんなんじゃ可愛く死ねないなと思った。私も誰かの人生のジムリーダー、じゃなかった、走馬灯に出演したいよ。エンドロールの最後の最後の小さい名前でいいから、誰かじゃなくてあなたの人生が終わる時だけでも思い出してほしかった。だからどうでもいいことをたくさん話す。大事な時に限ってどうでもいいことばかり思い出してしまうから、どうでもいいことをたくさん話してどうでもよくない女の子になりたかった。

 

死ぬというのは全てを捨てるということで、捨てるものが多くなるほど手間と時間がかかり躊躇してしまう。だから身軽な若者ほど自殺してしまうのかもしれない。軽くしないと降りられないのに、背負ったものを1つずつ下ろして捨てるのは実家の自室の大掃除に似ていて、比にならないほどずっとずっと苦しい。死ぬのを諦めた大人たちはこの世界に一体何人いるのだろう。21年も生きてしまった。どんなにゴミみたいでも捨てたくない記憶が多すぎる。どんなに汚い部屋だってそこは私の城だった。生きるじゃなくて生き延ばすが似合う人生に理由をくれる人たちのためにまた会う日まで1日1日どうにかやり過ごしたい。

 

街が全て同じに見えて、人がみんなくすんで見えて、どうしようもない生活の中で、光って見えるものは手放しちゃいけない。大事にしたってすり抜けていってしまうかけらがこれ以上ほろほろと崩れていきませんように。新宿と心斎橋の見分けがつかなくなっても新宿を選べますように。東口しか出口が見つからなくなって逃げ切って抜け出して君のところに辿り着けますように。そんなに遠くはないのに遠くぶって、換気の足りないワンルームから1人の夜を捧げている。滑稽に縋り付くような姿勢で撮った可愛いの向こう側をバラさないでいてくれるなら信じてもいいかなと思った。

 

 

痛みは忘れる、希望は霞む。君の代わりに僕は泣けない。目の前にいるその幻みたいな瞬間と綴る言葉が実存的な全てで、君もたぶんきっとそう。3万歩歩いたって東京から出られなくて、どこにいたってどこにもいけないままでここにいたいと思わせてくれる人やものを探しているだけ。街なんて箱で、それでもステータスにこだわってしまうからキラキラの箱の中で浮かれてしまうよ。箔をつければ私もキラキラの光の一つになれるかもしれないという淡い希望が昔の都で鈍く光って君に居場所がバレたらいいのに。

 

私の代わりはいくらでもいるみたいに、この街の代わりはいくらでもある。でも、誰かには私が私じゃないとダメなように、わたしには東京じゃないとダメだった。君じゃないとだめだからここで会うんだよな。これじゃないとダメだと思えるものをかき集めてこれがよかったと思える人生にしたいから、東京で過ごすはずだった夜をふかして、ふやかして、柔らかくして温めて、体ごと滲めば世界に馴染んで明日もやり過ごせるかもしれない。大切にしているものぜんぶ誰にもバレませんように。

2等3席

 

そろばんを7年近くやっていた。四段くらいは取った気がする。引っ越した家の近くにあったそろばん教室がたまたま強豪で、その教室で組んだ団体では都道府県TOP 3くらいにはなったし、好きだった男の子は都道府県で1位になっていた。私もよく頑張っていたと今振り返れば思うけど、私はずっと絶対的だった団体戦の選抜3人に入れない4人目で、その4人目の座を選抜3人のうちの1人に金魚の糞みたいについて回っていた女とずっと怒っていてちびまる子ちゃんの前田さんみたいなケチくさい意地悪な女と奪い合っていた。

 

人生で1番頑張ったことは?と聞かれたらまずは高校受験、その次にそろばんだと答える。わかりやすい戦績はあまりないけど。1番良かった成績が、確か小学校4年生くらいで出た地域のブロック大会の2等3席だ。2等3席、上から5番目、この大会は各席に1人ずつだったのでつまりは5位。なんて中途半端なんだろう。でも当時は嬉しくて仕方がなかった。賞品としてもらった趣味の悪い青い掛け時計は今も実家で時を止めたまま私の部屋の壁にかけられている。とにかくすごく嬉しくて、そのあと他にも山ほど大会に出て、一応都道府県のベスト20にもなって、他に1席に何人も座れるタイプの大会なら2等1席くらいは取った気がするけどこの2等3席だけをずっと覚えている。

 

我ながら中途半端な人生だったなと思う。上から2番目くらいのコミュニティでトップに立っては、1番上のコミュニティの下位よりは上であることを心の隅で誇りに思っていた。3人の泥試合には勝てたって、選抜3人の中にはずっと入れなかった。関関同立でトップって言ったって、京大や阪大には入れなかった。可愛い顔だねって言われたって、顔だけで選ばれることはなかった。補欠の中では強い方、私文の中では賢い方、ブスの中では可愛い方。前置きありきの褒め言葉たちで自己肯定感を育んで、枯らして、根無し草のまま一応花が咲いた。小さくて可愛くてすぐに萎むような花だけど、私はそれを大切にしたいのに。

 

この前20歳になった。年齢なんて関係ないと言う人たちの胸ぐらを掴んで揺さぶってやりたい。めちゃくちゃ関係ある。絶対に関係ある。確かに20歳はまだ若いかもしれないけど、私はレールの上を大暴れしながら生きたいので、年齢めちゃくちゃ関係ある。だってそれがレールだから。脱輪は誰がどう言おうと普通に事故だから、私は絶対にレールからはみ出ずにただ車内で大暴れしたいのだ。だから年齢というのは一生付き纏う。私が自分の手で纏わせている。ただ、この若さの上に胡座をかき、いつか取り返しがつかなくなった時には私も 年齢なんて関係ないよ って言いたくなるんだろうか。言っちゃったら取り返しがつかなくなりそうなので絶対に言いたくない。

 

もう正しい道を正しく歩むことはできないだろうなと思う。正しく努力して、正しく選ばれて、正しく咲くことはこの根無し草にはもうきっとできない。だから正しい道を行くんじゃなくて、いっそ脱輪してやろうか。振り切る方向は別にどっちでもいいんじゃないか。傾いたまま止まった列車の上で、一等まじめに生きてみたら、レールの上で大暴れしていたのとは似て非ずる世界が見えるのではないかと、今日もパソコンの前で夢想する。英語の先生からteamsの通知が来た。この先生だるいんだよな、と思いながらDeepL片手に四択問題を間違えずに答える。またレールの上を確実に、そしてゆっくりと、2等3席のその先を目指して進んだ。神様、どうかいつかきちんと全てが壊れますように。