きらきらひかれ

テレビもねえ ラジオもねえ おまえにそれほど興味もねえ

メメントモリ

無理だとわかっていても欲しいし、だめだとわかっていてもやるし、何年前から余命宣告されたって死ぬのは悲しい。悲しいという気持ちがただそこにあるということを受け止めて、終わりを忘れないで、私はこれからも生きなければならない。

子どもの頃に手に入らなかったものに人は一生執着するらしい。スナック菓子を食べさせてもらえなかった子どもが一人暮らしを始めてお菓子ばかり食べるとか、ゲーム機を買ってもらえなかった子どもが働いてゲーム機を買った途端寝ないでゲームをやり続けるとか。私は違う。私は何もかも持っていた。何もかもそれなりに与えられて、幸せに相違ない環境で、ぬくぬくとあたたかい家庭ですこやかに生かされてきた。何不自由ない子どもだった私に足りないのはきっと刺激と自由意志だった。

幸せになる方法を知っている。地元の国公立大学に行って、そこそこ大きい地元のさらに大きい隣の市で就職して、大企業のデスクワークで定時に帰って、帰りにイオンで買い物して、休日はたまに実家に顔見せて、社内の真面目そうな人と付き合って結婚して、産休育休フルで取って子ども産んで、郊外にマイホーム買って、時短で働きながら子どもの習い事の送り迎えして、子どもが大きくなったらまた働いて、定年になって貯まったお金と退職金で年金暮らし。そして、死ぬ。きっと私は死ぬしかできない。死ぬことすら上手くできないかもしれない。

常識を作る最小単位である家族の、親の生き方をなぞるように生きていく。喜びも苦しみも再生産。だってそれしか知らないから。常識とは18歳で家を出るまでに身を浸した環境のことだ。私にはそれがつまらなかった。普通の幸せが1番よ、と言われて信じられるほど素直じゃなかっただけかもしれない。ぬるま湯に浸けていても数時間後には火が通ってしまう鶏ハムみたいな、ゆっくりと温度を上げればそれに気づかずに茹でられてしまうヒキガエルみたいな、私もそうやって茹ってしまうだけなのではないかという漠然とした人間の不安。

夢を見てしまった。いつかのミスiDの「夢見る頃をすぎても」というキャッチコピーを思い出した。講談社のES締切はいつのまにか終わっていた。ミスiDにも書類で落ちた。夢見る頃はとっくに過ぎて、それでも私は東京に夢を見てしまった。夢が見たかった。
ひどくくたびれた現実を生きるくらいなら夢を見て死んでいく方がマシだと思う。ろくに見えない目で見る東京はぼんやりしてどこよりも美しかった。
梅田の歩道橋の手すりに沿って灯る暖かいオレンジの光の連なりを見て、ディズニーランドみたいだなと感動したことがある。小学生の頃の将来の夢がディズニーランドのキャストだったことを思い出した。穏やかで、暖かで、優しい光が見慣れたビル街の中で輝いて見えた。小学生時代の日々もこんな風に暖かかったのかもしれない。大阪が1番美しく見えたのはあの夜だった。
東京の光は白くて冷たい。突き刺すような眩しさに私は刺されて、暖かなあの色の日々を全部忘れた。馬鹿だったなあって思ってる。全部私が馬鹿だった。馬鹿で浅はかで愚かな幸せ者だった。痛くて苦しくて幸せだった。東京にいる人はいつだって「そんないいものじゃないよ」って笑うけど、私が暖かな光の日々を今そうやって言うみたいに、その中にいたらわからないんだよ。あんなに優しい光はもう私の人生に降り注がないのかもしれない。

死んでしまったらもう取り返しがつかない。死者は二度と生き返らない。私たちは死ぬ。たとえどんなに美しくても幸せでもそこには必ず終わりが来る。死ぬ日まで一生懸命生きていくことが生を受けたことへの報いなのかもしれない。一生懸命ってなんなのかな、私は一生分の命を懸ける覚悟も自信もあったのにな。なれんかった?私じゃだめだった?暗い森の中で叫んでも誰も見てくれないね。暖かい光はもう消えた。私の夢だったものは東京の光になれますか?流れ星よりもあのビルの窓から漏れる一筋の白い光に私はずっとなりたかった。